すなわちゲームの中で、ある選手がボールを捕ろうとして足を滑らせた瞬間、そこに観察されうる姿勢や運動も、単なる反応や反射ではなく、意味をもった即座の対応として把握されなければならない。このように、人間の運動を考察する場合には、予測できることに対応する能力だけでなく、「感覚—運動知能」と表現されるような予測できないことに対応する能力までも問題にする必要があるⅹⅶ 。そういう意味で、技術の使い方としての個人戦術は、意識的な知覚判断はもとより、意識の介在しない不測の事態への対応能力にも支えられることになる。長年ゲーム情況と関わってきた者は、選手の情況判断の善し悪しや即座の対応能力を、可視的な行動やそこで使われる動きの組合せの中に、技術—戦術的徴表として感得しているのである。

2 意味構造としてのゲーム分析

以上の考察から、ゲーム情況にある選手の運動は、人間と環界の関連領域における機能としてとらえられ、我々がそれを考察する場合に、主体という概念を導入することは避けられなくなるのである。すなわち、我々の運動の世界では、「主体と環界があって、その積極的な対峙の中で運動が生まれる。主体があって、その主体がある意味と意図をもって何かをなそうとする。そしてそこであるやり方に価値を見い出したからこそ選択が行なわれ、あることに決断してそれを実行していく」ⅹⅷ のである。したがって、我々運動をやっている者が、どれほど多くの内容を、「体験空間」や「体験時間」の中にとらえているかを欠落させてはならないのであるⅹⅸ 。我々の目の前の生き生きしたゲーム情況とは、選手によって体験される時間と空間のことでもあり、その中でこのような選択と決断が行なわれるととらえることができる。

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