またこの場合、「前もって計画された戦術(ゲーム構想)、あるいはゲーム経過の中で発生する戦術は、選手の決断を通して、試合活動を意識的に形成することによって実現される」ⅻ という。したがって我々は、どんな競技力をもち、明快な戦術を予定しても、情況を見抜く判断力と、ここでいう決断力がなければすべて水泡に帰してしまうことになる。 

ここで次のボイテンディクの指摘に注意する必要がある。すなわち、「いかなる仕方であれ、何処かで・何ものかと共に・何ものかのうちにあること」を「情況のうちにある」と呼ぶのであって、これこそすべての行動の絶対的制約だということであるⅹⅲ 。すなわち我々は、いかなる行動も情況と切り離して考えることはできない。「行動とは人間もしくは動物とその環境との有意味な関わり方の現象様式である。観察者は、つねに情況からのみ行動を理解する」ⅹⅳ 。 

たとえば、ある情況で、動物も人間もともに足を滑らせた時には、足元が滑らかで危険だと感じるが、人間は同時に滑らかさのもつ客観的、事実的なものをも感じ取り、それによって思考のきっかけが与えられるというⅹⅴ 。すなわち、人間はそのことに対してさまざまな意味を賦与することができるのである。そして、一義的な行動をとる動物と違って、「行為する人間はなさんと欲すること、なさねばならぬこと、なすことを許されたこと、なすべき責務のあること、なすかもしれぬことといったものを選択を通じて決断しなければならない。人間の関連系は経験と決断とに附随する価値的性格のうちに創り出される。人間の行為は達成である」 ⅹⅵという。 

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