また、ある主体が他の主体とともに同じ課題を解決していく場合に、そこでの共通の意識体験によって集団の動きの形態というものが形成されていることを我々は経験から知っている。ゲーム情況で、個々が機能して現象する集団は、まさしく後藤のいう「現象集団」と表現できよう。「旋律が個々の音の総和以上のものであるのと同様に、集団もまたN人の総和以上のものである。旋律がゲシュタルトといわれるように集団もまたゲシュタルトである」ⅹⅹ 。もし各構成員の心の中に『われわれ』というような心理的集団がないならば、現象的集団は成立することはできない。『われわれ』という心理的集団は、単に自分を含めた人間の複数を意味しているのではない。それは自分と他の人々とを構成員とする「体制の複数を意味する」。したがって、両者の関係は、「同形」(isomorphic)であるということ以外に、現象的集団は心理的集団を前提としているという ⅹⅹⅰ。この考え方に基づくと、集団の動きの形態が存在するためには、チームの選手の一人一人には、我々の動く感じといったような、内的な集団の動きというものが形成されていなければならない。実際我々が、個から集団へと視点を変更しながら、ゲーム情況に発生する集団の動きの形態を視覚的に知覚している時、我々はまさに集団の動きの主体性というべきものを考慮しているのではないだろうか。

ゲームとは一回限りの物語のようである。とはいえ我々は、そのゲームを、今ここで立ち現われているゲーム情況のまとまりとしてとらえることができる。そしてそれは、「ゲーム構想」を前提にし、「ゲームの流れ」にしたがった、「集団の攻防の動き」の意味と「個人の攻防の動き」の意味とが織り成す「ゲーム局面」から把握できると考えるものである。これらが本論の意味分析の視点である。

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