のだと思う。[大谷武ー:「ハンドボール」序文 妙義社1950]
 彼のとらえたハンドボールとはいかなるものであったかを,以下,当時のまま再現してみたい。 「ハンドボールは独逸で盛んに行われる競技でありますが,このゲームは最も分り易く申し上げますとフットボールではボールを足で送るが,ハンドボールでは手で送るというのが重なる相違点で,その他は殆どア式フットボールと同じであると言ってよろしい。
 競技の方法は各競技者は球を敵のゴールを通して投げこみ,味方のゴールを敵の投手に対して防ぐという働きをするのであります。ゴールキーパーはゴールエリアに在る間は足で防ぐことが出来ます。競技者はボールを手にして3歩以上走ってはいけない。……ハンドボールはア式フットボールに比して一層体育的であると言 われて居りますが,それはハンドボールでは走り廻ることは足で行い,ボールの扱いは手で行います。ボールを手で扱う方が,足で扱うよりは一層容易であります。それで児童特に女子に適すると言われて居ります。
 だから,ア式フットボールを始める前にハンドボールをやるとよいと思います。
 季節は,このゲームはかなり活動的でありますから,秋の終り頃から冬,春の初めに掛けてよいスポーツであると思います。」[大谷武一他:「運動競技全書」朝日新聞社1925]
 彼のハンドボールに対する評価はきわめて高 く,その後も「体育の諸問題」(1924)や「体育と競技」(1925)にその視点を提示しているが,以下の点に要約できるであろう。
① サッカーと異なり全身運動であり,身体練習からみれば合理的な体育方法であるゆえに社会体育に適する。
② 蹴るような動作がなく,コートが広いために身体接触も少なく女子の教材として有効。
③初心者でもゲームができ,最初から興味がもてるがゆえに身心が十分発達していない児童に向いている。
③寒い季節に最も適するスポーツである。
 [大西武三:「大谷武一氏とハンドボール」1979]
 彼の見たハンドボールは,ドイツにおいても勃興期の11人制のゲームであり,現在の日本の競技様相とは違いがあるのは当然とはいえ,日本におけるオリジンにおいて,今日の激しい格闘技的な イメージと異質なものが取り上げられていたことは興味ある事実である。とりわけ、児童や女性に とって自然で簡易な運動である点が普及のためのポイントであったことに,大谷武ーの先見性をみてとることができる。
 さらに,彼がハンドボールに対して貢献したのは,学校体育に積極的に導入したことである。学校体操教授要目の改正委員として、1926年に中学校,師範学校の新教材としてハンドボールを配当し,その後のハンドボールの教育の基本線を確立したといえる。
 さて,このようにして移入されたハンドボールは,陸上競技連盟内に席を置きつつ,1928年のIAHF結成時に正式に組織加盟し,国際舞台に仲間入りすることとなった。そして1940年の東京オリンピック開催をめざして1937年に第1回全日本選手権を開き,1938年には日本送球協会として自立するまでとなった。残念にもオリンピックは返上となったが,これを契機として競技ハンドボールがその実態を整えていったというのが事実であろう。

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